経教は鏡のごとし ―私を映し出す「真実の鏡」―

「経教(きょうきょう)はこれを喩(たと)うるに鏡(かがみ)のごとし」――善導大師

浄土真宗で大切に敬われる七高僧のお一人、善導大師(ぜんどうだいし)が残されたお言葉です。

「経教」とは、お釈迦さまが説かれたお経や、仏さまの教えのこと。つまり善導大師は、「仏さまの教えとは、例えるなら『鏡』のようなものである」とおっしゃっているのです。

私たちは毎日、洗面台やドレッサーの鏡を見ます。では、家の鏡と仏教という鏡は、いったい何が違うのでしょうか。今回はこの「鏡」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

家の鏡と、教えの鏡

私たちが普段見ている鏡は、何のためにあるのでしょうか。それは「外側の姿」を映して、整えるためです。

寝癖がついていないか、顔に汚れがついていないか。鏡を見て、汚れがあれば洗い落とし、乱れていれば櫛で整える。そうやって「きれいにするため」に見るのが、普通の鏡です。

しかし、善導大師のおっしゃる「経教(教え)の鏡」は、顔や髪型を映すのではありません。この鏡が映し出すのは、目には見えない「私の心」、そして「私の生き様」です。

私たちは普段、自分のことをどう思っているでしょうか。

  • 「私は法律を犯したこともない」
  • 「人並みに優しく生きている」
  • 「あの人に比べれば、マシな人間だ」

そんなふうに、自分を「善人」だと思って生きています。ところが、仏さまの教えという鏡の前に座り、静かに自分を見つめてみると、どうでしょうか。

映し出される「あさましい私」

聴聞(ちょうもん)を重ね、教えの鏡に照らされたとき、そこに映っていたのは「立派な善人」ではありませんでした。

「あの人ばかり評価されて面白くない」という妬みの心。「損をしたくない、自分だけは得をしたい」という欲の心。思い通りにならないとカーッとなって、家族や友人を傷つけてしまう怒りの心

外側はニコニコしていても、心の中にはドロドロとしたものが渦巻いている。教えの鏡は、そんな私の「あさましい本性」を、ごまかすことなくハッキリと映し出します。

これを親鸞聖人は「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」とおっしゃいました。煩悩の塊が、ほかならぬこの私であったと気づかされるのです。

普通の鏡であれば、汚れが見つかれば洗い落とせます。しかし、この心の汚れは、どれだけ修行しても、どれだけ反省しても、私の力では洗い落とすことができません。私たちは死ぬまで、この煩悩の身を抱えて生きていくしかないのです。

映すのは「救うため」

自分の本当の姿を見せつけられると、私たちは絶望してしまいそうになります。「こんな汚い心では、仏さまに見捨てられるのではないか」と。

しかし、ここからが浄土真宗の尊いところです。

仏さまが教えという鏡で私たちの姿を映し出すのは、決して「お前は汚い」と責めるためではありません。「自分の力ではどうすることもできない、その身のままで救うぞ」と告げるためなのです。

病気が見つからなければ治療ができないのと同じように、「自分は善人だ(健康だ)」と勘違いしている間は、阿弥陀さまの「助けるぞ」という呼び声を聞くことができません。

「鏡」によって自分の愚かさを知らされるからこそ、「ああ、だから私には阿弥陀さまの救いが必要だったのか」と気づくことができる。鏡に映った自分の姿に驚き、呆れ、そしてその私を「そのまま救う」とおっしゃる阿弥陀さまの慈悲に、自然と頭が下がるのです。

お念仏は、鏡の前での感謝

「経教はこれを喩うるに鏡のごとし」

私たちが日々、お仏壇の前で手を合わせ、お経を読み、法話を聞く。それは、仏法という鏡の前に座り、自分の心の襟を正す時間です。

「阿弥陀さま、鏡を見れば見るほど、どうしようもない私でした。しかし、そんな私だからこそ、あなた様が見捨てずにいてくださるのですね」

その気づきと感謝が、「南無阿弥陀仏」というお念仏となって、口からこぼれ出ます。

どうぞこれからも、お寺やお仏壇という「鏡」の前で、阿弥陀さまとご自身の心に向き合う時間を大切になさってください。


合掌