「供養」という言葉は、私たちの暮らしの中に、すっかりなじんでおります。お墓参りをすること、法事をつとめること、お仏壇に手を合わせること。それらをまとめて「供養」と呼ぶのが、ごく当たり前になっております。
ところが、浄土真宗のお寺で話を聞いておりますと、この「供養」という言葉が、あまり使われないことに、お気づきになるかもしれません。今日は、そのことについて、お話しさせていただきます。
「供養」という言葉の、もともとの意味
「供養」という言葉には、もともと「追善供養(ついぜんくよう)」という考え方がございます。
遺された者が善い行い(善)を積み、その功徳を、亡き方に追って差し向ける(追善)。それによって、故人がより良い境涯へ往けるように、というものでございます。
その源には、お盆の由来として知られる『盂蘭盆経(うらぼんぎょう)』の、目連(もくれん)尊者の物語がございます。
お釈迦さまのお弟子であった目連尊者が、神通力で亡き母の姿を探したところ、母は餓鬼道に堕ち、逆さ吊りにされて、飢えと渇きに苦しんでおりました。生前、我が子には惜しみなく与えながら、他人には物惜しみ(慳貪〈けんどん〉)をした報いであった、と説かれます。
目連尊者が食べ物を差し出しても、口に入る前に炎となって燃え尽きてしまう。なすすべなくお釈迦さまに救いを求めますと、こう教えられました。「おまえ一人の力では、母は救えぬ。夏の修行を終えた僧たちに、真心をこめて供養しなさい。その功徳が、母を救うであろう」と。
目連尊者がそのとおりにいたしますと、僧たちは大いに喜び、その功徳によって、母は餓鬼道の苦しみから救われた――こう伝えられております。
亡き方のために善を積み、その功徳を差し向けて救う。これが、追善供養のもとになった考え方でございます。
阿弥陀さまの救いのすがた
では、なぜ浄土真宗では、この追善供養を、あまり申さないのでしょうか。
それは、南無阿弥陀仏のお救いは、私たちが善の行いを行ったかどうかによって往生が決まるのではなく、すでに阿弥陀さまによって救われている、と聞かせていただくからでございます。
浄土真宗では、いのち終えた方は、間を置くことなく、阿弥陀さまのお浄土に生まれ、仏とならせていただく、と教えられます。これを「往生即成仏(おうじょうそくじょうぶつ)」と申します。
阿弥陀さまは、私どものような、迷いや欲を抱えたままの者をこそ、決して見捨てず、「必ず救う」と誓われた仏さまでございます。その救いは、こちらの働きかけを待って、はじめて動き出すようなものではございません。亡き方は、私が何かをするより先に、もう、あたたかい光の中に摂めとられているのでございます。
では、供養しなくてよいのか
このように申しますと、「では、浄土真宗では、亡き方に何もしなくてよいのか」と、思われるかもしれません。
けっして、そのようなことはございません。
言葉のもともとの意味がどうであれ、亡き方やご先祖を大切に思う、そのお気持ちに、何ら変わりはございません。お仏壇にお仏飯をお供えする。お墓を掃除する。命日には花を替える。そうして手を合わせてこられた、そのお心こそが尊いのでございます。
浄土真宗が申しておりますのは、「何もしなくてよい」ということではございません。あの方が救われるかどうかを、こちらが案じなくてもよいのですよ、ということでございます。そのことは、すでに阿弥陀さまが引き受けてくださっている。ですから、どうぞ安心して、手を合わせてくださいませ、と。
手を合わせる、そのこころ
私どもには、手を合わせる場所が要ります。
お仏壇の前。お墓の前。あるいは、ご法事の座。そこは、亡き方に向き合わせていただく場でございます。日々の暮らしに追われておりますと、私どもはすぐに、大切なことを忘れてしまいます。だからこそ、ふと足を止め、静かに頭を下げる場所が、どうしても必要なのでございます。
そこで、あらためて思い返してみる。あの方と過ごした日々のこと。かけていただいた言葉のこと。ご苦労のこと。
そうしておりますと、自然と、ありがとうございました、という思いがこみ上げてまいります。故人を救おうという心ではなく、いただいてきたものへの、感謝のこころでございます。
そして、もう一つ。手を合わせておりますと、亡き方を通して、私自身の姿が見えてまいります。
あれほどしていただきながら、当たり前だと思っていた自分。ありがとうの一言も、十分には言えなかった自分。日々のことに紛れて、大切なことを後回しにしてきた自分。――そうした、いたらぬ私の姿でございます。
亡き方は、仏となられて、そのことに気づかせてくださるのでございます。「そのままのあなたを、阿弥陀さまは救うと言うてくださっているのですよ」と。
手を合わせる、その行いは、何ひとつ変わりません。変わるのは、その意味でございます。
御恩報尽のお念仏
その合わせた手から、自然とこぼれ出るのが、お念仏でございます。
蓮如上人が書かれた『御文章(ごぶんしょう)』の中に、「聖人一流章(しょうにんいちりゅうしょう)」と呼ばれるお手紙がございます。ご法事などで、よく拝読させていただくものでございます。その結びに、こうございます。
そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽(ごおんほうじん)の念仏とこころうべきなり
阿弥陀さまにおまかせした、その上で称えるお念仏は、「往生を定めてくださった、そのご恩に報いるお念仏」と心得なさい――こう教えてくださっております。
お念仏は、何かをお願いするための言葉ではございません。「どうか救ってください」でもなければ、「あの人をお願いします」でもない。すでに救ってくださっていることへの、「ありがとうございます」でございます。
亡き方を思い、手を合わせ、南無阿弥陀仏と称えさせていただく。それは、故人へ何かを差し向ける行いではなく、私が今、いただいているご恩に、お礼を申し上げるすがたなのでございます。
亡き方を思い、手を合わせる。そのお心を、どうぞ大切になさってください。その手の中に、仏となられたあの方が、いつでも寄り添っていてくださるのでございます。

