摂取不捨 ―逃げる私を、追いかけて―

今回は、浄土真宗で大切にされる「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」というお言葉について、ご一緒に味わってみたいと思います。

「摂取不捨」とは

『仏説観無量寿経』というお経に、次のような一節があります。

光明はあまねく十方の世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず

阿弥陀さまの光明はすべての世界を照らし、お念仏をいただく者を「摂取して捨てない」――すなわち、おさめ取って、決して見捨てないというのです。

親鸞聖人は、このお心を『浄土和讃』に次のように詠っておられます。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし

摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

十方の数限りない世界の、念仏の衆生をご覧になって、摂取して捨てない――だからこそ「阿弥陀」とお名づけ申し上げるのだ、というのです。「摂取不捨」は、阿弥陀さまが「阿弥陀」と呼ばれるゆえんそのものなのです。

そしてこの和讃の「摂取」というお言葉に、親鸞聖人は味わい深い注釈(左訓)を残してくださいました。

「ものの逃ぐるを追はへ取るなり」

「ひとたび取りてながく捨てぬなり」

逃げる者を、追いかけてつかまえる。ひとたびつかまえたなら、永く捨てない。

なんと力強いお言葉でしょうか。阿弥陀さまの救いは、「向こうから来てくれたら助けてあげよう」というものではありません。逃げる者を、向こうから追いかけてつかまえてくださる救いなのです。

逃げているのは、誰か

では、ここで「逃げるもの」とは誰のことでしょうか。

――ほかでもない、この私のことです。

「逃げてなどいない。私は手も合わせているし、お参りもしている」――そう思われるかもしれません。しかし、振り返ってみるとどうでしょうか。

私の心は、常に阿弥陀さまの方を向いているわけではありません。

手を合わせていても、頭の中は今日の用事や明日の仕事のことでいっぱい。楽しいことがあれば仏さまのことはすっかり忘れ、都合が悪くなると「仏さま、何とかしてください」と手を合わせる。欲に引かれ、怒りに振り回され、仏さまに背を向けてばかりいる。

それが、偽らざる私の姿ではないでしょうか。「逃げるもの」とは、まさにこの私のことだったのです。

それでも、捨てない

普通、人と人との関係であれば、背を向け続ける相手には、いつか愛想が尽きてしまうものです。「もう知らない」と手を離してしまうのが、私たちの世界です。

しかし、阿弥陀さまは違います。

何度背を向けても、何度忘れても、「そんなお前だからこそ、放ってはおけぬ」と、追いかけてつかまえてくださる。そしてひとたびつかまえたなら、どんな私であっても、永く捨てずに保ち続けていてくださるのです。

私の心が阿弥陀さまを向いているから、救われるのではありません。私の心がどちらを向いていようと、阿弥陀さまの方がこの私をしっかりとつかまえて、離さずにいてくださる。救いの確かさは、私の心の側にではなく、阿弥陀さまの側にあるのです。

だから、私の心が定まらなくても、信心が揺らぐように思える日があっても、心配はいりません。つかまえていてくださるのは、向こう様なのですから。

お念仏は、つかまえられているしるし

「ものの逃ぐるを追はへ取るなり」

「ひとたび取りてながく捨てぬなり」

このお言葉を味わうとき、思い起こされるのは、幼い子と親の姿です。子どもは遊びに夢中になって、親の手を振りほどいて駆け出していきます。しかし親は、決して子どもから目を離しません。危ないとなれば追いかけて、しっかりとその手をつかまえる。

子どもは親のことを忘れていても、親は片時も子どもを忘れない。阿弥陀さまと私の関係も、また同じです。

私が忘れていても、阿弥陀さまはこの私を捨てずに、今この瞬間も保ち続けていてくださる。そのことに気づかされたとき、自然と口からこぼれ出るのが、「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

お念仏は、私が阿弥陀さまをつかまえるためのものではありません。すでに阿弥陀さまにつかまえられていることを知らされた、感謝のしるしなのです。

どうぞ今日も、つかまえられている安心の中を、お念仏とともに歩ませていただきましょう。


合掌