この記事のタイトルは、福山雅治さんの「道標(みちしるべ)」という曲の歌詞から、一節をお借りしたものです。
著作権に配慮して、歌詞の全文をここに載せることはいたしませんが、この曲は、福山さんが敬愛されたおばあ様を思って作られたものだそうです。この歌では、「手」を通して大切な方のお姿が偲ばれてまいりますが、聴かせていただく私たち一人ひとりもまた、それぞれの大切な方とのご縁を、あらためて味わっていける。そんな歌のように思います。
働いてきた手
皆様は、大切な方の手を、覚えておられますでしょうか。
長い年月、働いてきた手。田や畑のため、あるいはお勤めのために、朝から晩まで動き続けた手。誰かを育て、支え、ときには私たちの手を引いて歩いてくれた手です。
若い頃には、ごつごつと逞しかったその手も、年を重ねるにつれ、細く、やせて、皺が深くなっていきます。握ると、骨の形がわかるようになる。
その手が、これまでどれほど多くのものを支えてきたか。あらためて思うと、頭が下がる思いがいたします。
気づくのは、いつも後になってから
けれど、私たちというのは、少し勝手なものかもしれません。
その手のありがたさに気づくのは、たいてい、その手がもう思うように動かなくなってから。あって当たり前、いつまでもそこにあると思っていた。「ありがとう」の一言も、十分には言えなかった。――そんな心当たりは、どなたにも少しはあるのではないでしょうか。
親鸞聖人のお言葉を伝える『歎異抄(たんにしょう)』の第三条に、こういう一節がございます。
煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死(しょうじ)をはなるることあるべからざるを……
「煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわれら」――欲や、怒りや、思うようにものごとを受けとれない迷いを、身にそなえたまま生きている私たち。そんな私たちは、どんな行いをしても、迷いの世界を自分の力で抜け出すことはできない、というのです。聖人ご自身も、自らを「愚禿(ぐとく)」、すなわち愚かな凡夫と名のって、生涯を歩まれました。
けれども、浄土真宗のみ教えのありがたいところは、ここからでございます。そうした、いたらぬ私たちだからこそ、阿弥陀さまは見捨てることなく、まるごと救いの目当てとしてくださる。「あなたを必ず救う」と、そのままの私に、手をさしのべてくださっているのです。
いのちは、受け継がれていく
「道標」の中で、福山さんは、自分の手がおばあ様の手に似ていることに気づかれます。そして、そこにいのちのつながりを感じ取っておられます。
これは、とても仏教的なまなざしだと感じます。
亡くなった方は、どこか遠くへ消えてしまうのではありません。その方の手が、私の手に。その方のくせが、笑い方が、ものの考え方が、気づけば私の中に受け継がれている。ふとした瞬間に、「ああ、あの人に似てきたな」と思う。そのとき、あの方は確かに、私の中に生きておられるのです。
手を合わせる
私たちが、大切な方の前で、そっと手を合わせるとき。
その合わせた両の手の中に、あのあたたかい手が、そっと包まれている。かつて、あなたの手を引いて歩いてくれた、あの手が――。そのように味わっていくこともできるのではないでしょうか。
合掌は、感謝のかたちです。そして、その手を合わせようという心すら、実は自分から起こしたものではないのかもしれません。気づけば、手が合わさっていた。頭が下がっていた。どこか向こうから、やって来た。
浄土真宗では、いのち終えた方は、お浄土に生まれて仏となり、そこにとどまることなく、ふたたびこの私のもとへ還り来て、導いてくださると聞かせていただきます。
あの方を思って手を合わせる、その心の動きそのものが、亡き方が仏となって、「そばにいるよ」と、はたらきかけてくださっているすがたなのでしょう。
一曲の歌をきっかけに、あらためて、そんなことを思わせていただきました。皆様も、ふとした折に大切な方を思い出されましたら、どうぞ静かに、お仏壇の前で手を合わせてみてください。

