お朝夕のお勤めで唱えさせていただく『正信偈』の中に、次の一節があります。
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
(ぼんしょう・ぎゃくほう ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水(しゅすい)海に入りて一味(いちみ)なるがごとし)
凡夫であれ聖者であれ、また五逆の重い罪を犯した者であれ仏法を謗った者であれ、等しく阿弥陀仏の本願に回り入るならば、あらゆる川の水が海に入って一味の塩味となるように、みな同じ一つの救いにあずかる——そういうお言葉です。今回はこの一節を、少し立ち止まって味わってみたいと思います。
人は物差しで測るのに
私たちは、人のことを測る物差しを、たくさん持っています。「あの人は立派だ」「あの人はいただけない」「あの人のあの振る舞いは間違っている」。一日の中で、どれほど多くの物差しを、周りの人々に当てながら過ごしていることでしょう。
ところが不思議なことに、その物差しが自分自身に向けられることは、めったにありません。人の何気ない失言はいつまでも覚えていても、自分が人を傷つけた言葉はあっさり忘れてしまう。人の欲や怒りには敏感に反応するのに、自分の欲や怒りには実に鈍感でいられる。私の物差しは、いつも外にばかり向いています。
自分の煩悩に、なかなか目を向けられない
仏教では、私たちのことを煩悩の凡夫と呼びます。欲があり、怒りがあり、ねたみや妬みがある。そう聞けば頭では納得するのですが、いざ自分の心の内を覗こうとすると、私たちはつい目を逸らしてしまいます。自分の煩悩と正面から向き合うことは、思いのほか苦しいことだからです。
「凡聖逆謗」の「逆謗」とは、五逆という重い罪を犯す者、そして仏の教えを謗る者のことです。阿弥陀仏の第十八願には「唯除五逆、誹謗正法(ただ五逆を除き、正法を誹謗せん)」とあり、そのような者たちは一度は本願から除かれたとさえ説かれています。ふだんなら「それは自分とは無縁な、よほどの悪人の話だ」と読み流してしまうところです。
ところが親鸞聖人は、この「逆謗の者」を、どこか遠くの誰かのこととしてではなく、「この私のことであった」と受け止められました。『歎異抄』には「わがこころのよくてころさぬにはあらず」——人を害さないのは私の心が善いからではなく、たまたまそのような縁がなかっただけなのだ——というお言葉が残されています。物差しを他人にばかり向けて生きる私にとって、これは耳の痛い言葉です。けれども同時に、救いの目当ては実はこの私自身であったのだと気づかされる、有り難い言葉でもあります。
海に入れば、みな一味
「如衆水入海一味」。清らかな川の水も、濁った池の水も、空から降る雨の一滴も、海に入れば、みな同じ一つの塩の味になります。阿弥陀仏の本願の海は、それほどまでに大きいのだと言われます。
物差しで測り合うこの世界では、私たちはつい優劣や正誤で人と並べ立ててしまいます。けれども阿弥陀仏の願いの前では、測る側の私も、測られる側のあの人も、等しく救いの中へと入れられていく。人を測ってばかりいたこの私もまた、海に入ればただの一滴の水に過ぎないのです。
御同朋ということば
蓮如上人は、御文章の中で「聖人は御同朋・御同行とこそかしずきて仰せられけり」と宗祖親鸞聖人がお念仏の教えを聞く人々の事をあらわされたと述べています。同朋とは、もともと同じ師のもとで学ぶ仲間を指す言葉です。親鸞聖人は、集う人々を家来や門弟としてではなく、同じ阿弥陀仏の本願を聞き、同じ念仏をいただく「仲間」として遇され続けました。
上も下もない。先生と生徒でもない。同じ南無阿弥陀仏をいただいている同朋である——その言葉の中に、「如衆水入海一味」の世界がそのまま息づいているように思います。物差しを外に向けて暮らす私とあなたが、同じお念仏の中で、同じ海へと向かう一滴どうしなのです。
おわりに
凡聖逆謗斉回入、如衆水入海一味。
お勤めの中で何気なく唱えていたこの一節は、遠い昔の誰かの話ではなく、今この私自身に向けられた言葉であったのだと、あらためて味わわされました。
人を測る物差しを、そっと置いて。同じ念仏をいただく同朋として、今日も一句、南無阿弥陀仏と申させていただきたいと思います。
