皆様、日々お念仏ご相続のことと存じます。
さて、本日は「還る」という言葉について取り上げたいと思います。
「かえる」というのは、あたたかい言葉でございます。仕事を終えて家に帰る。お盆に故郷へ帰る。どこであれ、かえる場所があるというのは、それだけで安心なことではないでしょうか。
浄土真宗のみ教えの中にも、この「還る」という言葉がございます。ただ、その向きが、少し思いがけないほうを向いております。本日はそのことをご紹介させていただきます。
①お浄土へは「往く」
浄土真宗では、亡くなられた方が阿弥陀様のお浄土に生まれることを「往生」と申します。
往って、生まれる。字のとおり、こちらからあちらへ向かう言葉でございます。
では、「還る」とは、どちらへ向かうことなのでしょうか。
②「還相」――お浄土から、こちらへ
親鸞聖人は、主著『教行信証』のはじめに、二種の回向をお示しになりました。「往相」と「還相」でございます。
往相とは、私がお浄土へ往き、仏とならせていただくすがた。
還相とは、お浄土で仏となられた方が、ふたたびこの迷いの世界へ還り来て、あとに残された者を導いてくださるすがたでございます。
つまり「還る」の向きは、お浄土から、こちらへ。私のおります、この娑婆へ、でございます。
さとりを開いて、それで終わり、ではないのです。仏となられた方は、そこにとどまってはおられません。苦しみのただ中にいる者を放ってはおけず、還って来られる。それが、浄土真宗のいただくお浄土のすがたでございます。
③迎えに出て、前を走ってくださる
たとえ話を一つ、させていただきます。
お盆に、久しぶりにご親戚の家へ車で向かうといたします。
山あいの、細い道でございます。分かれ道がいくつもあり、目印になるものもございません。このあたりでは、カーナビもあまり当てにならないことがございます。
そのようなとき、ひと足先に着いておられる方は、家で座って待っておられるでしょうか。そうではございません。分かれ道のところまで車で出て来て、待っていてくださいます。
そして、こちらの姿を見つけると、「ついて来い」と、前を走ってくださるのです。
先に着いた者が、わざわざ道の分かれ目まで戻って来て、迷っている者の前を走る。これが、還相でございます。
家が、お浄土。分かれ道が、この娑婆でございます。
先に往かれたあの方は、お浄土に着いて、それきりではございません。今日も分かれ道まで、つまりこの娑婆まで、私を迎えに還って来てくださっているのです。
④往くも還るも、他力による
日々おつとめいたします『正信偈』に、こういう一句がございます。
往還回向由他力
往還の回向は他力による
往くのも、還るのも、他力による。阿弥陀様のおはたらきによる、ということでございます。
私が自分の力でお浄土へ往くのではない。このことは、日ごろよく聞かせていただきます。
けれどもこの一句は、その先まで言い切っております。還って来てくださる、そのおはたらきさえ、亡き方がご自分の力で起こされたのではない。阿弥陀様から賜ったものだ、と。
先ほどのたとえで申しますなら、迎えに出ようと思い立たせ、その車を分かれ道まで走らせておられる方がある。それが阿弥陀様でございます。
⑤往きっぱなしでは、ないのです
大切な方をお見送りいたしますと、遠くへ行ってしまわれたように感じるものでございます。
けれども、往きっぱなしでは、ないのです。
ご法事の席などで、故人の口ぐせをふと思い出して、はっとされた経験はございませんでしょうか。あるいは、お寺のお話を一度聞いてみようかという気に、ふとなられたこと。
そのこと自体が、あの方が分かれ道まで迎えに出て、前を走ってくださっているしるしなのかもしれません。
かえる場所があることは、安心でございます。そしてお浄土は、かえって来てくださる場所でもあるのです。
今後も折々に、こうしたお言葉についてご紹介してまいりたいと思います。

