来月、法泉寺では報恩講法座をお勤めいたします。報恩講は親鸞聖人のご命日をご縁に、み教えをお示しくださったご恩をよろこぶ法座で、浄土真宗ではもっとも大切な法座です。
皆さまはどのような形でお念仏のご縁に出遇われたでしょうか。
実家で家族がお仏壇にお参りする姿を見て育った方もおられるでしょう。身近な方を見送る悲しみのご縁で、はじめてお念仏を口にされた方もおられるでしょう。孫の誕生や家族の門出など、うれしい知らせをお仏壇に伝えるときに、お念仏を称えてこられた方もおられることと思います。お念仏は悲しいときだけに称えるものではありません。きっかけはお一人お一人違います。けれども、どの道をたどっても、お念仏は誰かの声を通して届いてきたものです。そのはじまりを、今日はお経の中にたずねてみます。
「名を持て」
なんぢよくこの語を持(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。
(『仏説観無量寿経』、註釈版聖典117ページ)
お釈迦さまが阿難(あなん)さまに、「この言葉を大切に保っていきなさい。それは、無量寿仏のみ名を保っていくということです」と告げられたご文です。
『観無量寿経』は、王妃の韋提希(いだいけ)がお浄土を観る方法を教えてほしいとお釈迦さまに願い出たことから説かれたお経です。心を静めて仏さまやお浄土を観る行(定善(じょうぜん))や、日々の善い行い(散善(さんぜん))が、十六通りにわたって丁寧に説かれていきます。
ところが説法の最後、お経の要(かなめ)を後に託す場面で、お釈迦さまはそれらの行をさしおき、「無量寿仏の名を持て」と阿難さまに伝えられました。名を持つとは南無阿弥陀仏のお念仏を称えることです。それは私が励んで積む行ではなく、阿弥陀さまが本願に誓われた他力のお念仏です。
阿弥陀さまは、私たちが仏になるために必要な功徳のすべてを、南無阿弥陀仏のお名号(みょうごう)にこめてくださいました。数ある行の中から、お念仏が選ばれて託されたのは、そのためです。
祖父の調声
以前この欄にも書きましたが、法泉寺は私の母方の実家です。子どものころ、夏休みや冬休みに帰ってくると、祖父である前住職と兄妹三人で本堂に参り、一緒にお勤めをしました。
正信偈(しょうしんげ)も讃仏偈(さんぶつげ)も、何を称えているのか分からないまま、祖父の調声(ちょうしょう)にならって口を動かしていただけです。本堂に座るわけも、言葉の意味も、何ひとつ分かってはいませんでした。それでも、私のお念仏のご縁はそこから始まっています。
お釈迦さまが「名を持て」と言われたのは、阿弥陀さまのお名号を、はるか後の世の者にまで伝えようとされたからです。そうであれば、韋提希に説かれた教えは、凡夫である私に向けられたものだったと味わうことができます。
そう聞かせていただくと、祖父の声の向こうに長い道のりが見えてきます。祖父にお念仏を伝えた方がいて、その方にもまた伝えた方がいる。たどっていけば、お釈迦さまが阿難さまに託された、あの一言に行き着きます。
お仏壇に向かう家族の背中も、悲しみの席で誰かが称えたお念仏も、うれしい日に家族が口にしたお念仏も、同じです。どの声もお釈迦さまから託されたお名号を、私のところまで運んでくれた声でした。託された先にいたのは、何も分からずに口を動かしていた、この私だったのです。
「なんぢよくこの語を持て」。この一言は遠い昔に阿難さまお一人へ向けられただけの言葉ではありませんでした。自分の力では仏になる行を何ひとつ修められない私のために、阿弥陀さまはお名号ひとつに救いのすべてをこめ、お釈迦さまはそのお名号を後の世へ託してくださいました。
親鸞聖人もこのお名号をいただかれ、み教えとして私たちにお示しくださいました。報恩講はそのご恩をよろこぶ法座です。
託されたお念仏を、いまこの口に称えさせていただいている。そのことを、来月の報恩講のご縁に、皆さまとともによろこばせていただきたいと思います。
