みなさん、こんにちは。毎日、お仕事に家事に、本当にお疲れ様です。挨拶代わりに「最近どう? 忙しい?」なんて言葉を交わすことも多いのではないでしょうか。現代を生きる私たちは、大人も子どもも、何かに追われるように走り回っています。
「忙しい」の正体
さて、この「忙しい」という漢字、頭の中で思い浮かべてみてください。「りっしんべん」に「亡(な)くす」と書きますね。「りっしんべん」は「心」を表しますから、「忙しい」とは、**「心を亡くす」**と書くのです。
昔の人は上手いことを言ったものです。私たちは時間に追われて忙しくなると、単に「時間がなくなる」だけでなく、本当に大切な「心」までどこかに置き忘れてしまうようです。
何を「亡くす」のか
では、心を亡くすと、私たちはどうなるでしょうか。
例えば、朝、家族が出かける時に「行ってらっしゃい」と背中に声をかける余裕がなくなる。信号が赤になっただけで「チッ、運が悪いな」とイライラしてしまう。ご飯を食べているのに、頭の中は次の仕事の段取りでいっぱいで、味わうことを忘れてしまう。
そして何より、一番恐ろしいのは、「自分もいつか死んでいく身である」という事実と、「今、生かされていることへの感謝」を亡くしてしまうことです。
「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」と予定をこなすことばかりに必死で、ふと気づけば、今日一日、一度も空を見上げなかった、一度も「ありがとう」と言わなかった……。そんなふうに、人生の表面だけを滑るように過ぎ去ってしまう。これが「心を亡くす」ということです。
お仏壇の前に座る意味
そんな、走り続けて息切れしている私たちにとって、家にあるお仏壇(お内仏)は、一体どういう場所でしょうか。
「お仏壇は、亡くなったご先祖様のためにある」——多くの人はそう思っています。もちろん、亡き人を偲ぶ大切な場所です。しかし、浄土真宗では、お仏壇のことを「お内仏(おないぶつ)」と言ったりもしますが、これは**「生きている私が、仏様と向き合う場所」であり、もっと言えば「私が私の心を取り戻す場所」**なのです。
お仏壇の前に座り、チーンとおりんを鳴らす。あの澄んだ音色が響く間、そして手を合わせている間だけは、物理的に動きが止まりますよね。スマホを置いて、家事を止めて、座る。
その静寂の中で、阿弥陀さまの穏やかなお顔を見る時、私たちは「おい、そんなに焦ってどこへ行くんだい?」「お前の命は、走り回るためだけにあるのかい?」という、仏さまからの問いかけを聞くことができるのです。
「南無阿弥陀仏」でリセットする
私たちが口にする「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」というお念仏。これは、忙しさにかまけて、自分中心に凝り固まっていた心を、「ああ、そうではなかった」とリセットするスイッチのようなものです。
「南無阿弥陀仏」と称えるとき、「私の力だけで生きているんじゃない、数えきれないご縁とおかげさまで、今日を生かさせていただいているんだ」という、本来の「有るべき心」が、身体の奥底からフッと戻ってきます。
亡くしていた心が、阿弥陀さまの光に照らされて、私の中に帰ってくるのです。
1分間の「心の深呼吸」
「忙しくてお仏壇にお参りする時間なんてないよ」とおっしゃる方もいるかもしれません。でも、「忙しいからこそ」座るのです。
心を亡くしたまま10年生きるのと、毎日1分でも心を取り戻して生きるのとでは、人生の豊かさがまるで違います。
どうぞ、朝起きた時、あるいは夜寝る前のたった1分で構いません。お仏壇の前に座り、手を合わせてみてください。それは、阿弥陀さまと向き合う時間であると同時に、見失いかけていた「本当の自分」と再会する、大切な「心の深呼吸」の時間となるはずです。

