きょうだいが何人かいるご家庭で、親御さんがいちばん気にかけているのは、どの子でしょうか。
どの子も同じようにかわいい。それはうそではないと思います。それでも、熱を出して寝ている子がいれば、その夜はその子の枕元から離れられないのではないでしょうか。
病の子に、ひとえに重い
お経の中に、ちょうどこの親の心を語ったたとえがあります。『涅槃経(ねはんぎょう)』に説かれ、親鸞聖人が『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に引いておられる「七子(しちし)のたとえ」です。
たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。
(『教行信証』所引『涅槃経』、註釈版聖典279ページ)
ある人に七人の子がいました。そのうちの一人が病気になります。親の心は七人に平等でないわけではありません。けれども病の子には、ひとえに心が重くかかります。如来もまた同じである、と説かれています。
「平等ならざるにあらざれども」という言い方に、目がとまります。病の子だけがかわいい、というのではありません。残りの六人を忘れたわけでもありません。七人とも同じようにいとおしいからこそ、いま苦しんでいる一人を放っておけないのです。
元気な子は、親が見ていなくても走り回っています。病の子は、自分で水を飲みに立つこともできません。親はその子の額に手を当て、夜中に何度も様子を見に行きます。えこひいきとは違います。平等な心が、いちばん手のかかるところへ向かった姿です。
病の子は、わたし
このたとえを聞くとき、私はつい親の側に立っています。心配をかける子がいて、それを案じている自分がいます。あるいは七人のうちの、元気な六人のほうに自分を数えています。
ところが、たとえが指している病の子は、ほかの誰かのことではありませんでした。腹を立て、ねたみ、自分の都合でものを見ることをやめられません。煩悩具足(ぼんのうぐそく)のまま、迷いを離れることのできない私こそが、病の子でした。
親鸞聖人はご和讃に、こううたわれています。
平等心をうるときを 一子地となづけたり
一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし
(『浄土和讃』、註釈版聖典573ページ)
一子地(いっしじ)とは、あらゆるものをひとり子のように哀れむ境地のことです。すべてのものを分け隔てなく見る心を得たところを、一子地といいます。それは仏性(ぶっしょう)であり、安養(あんにょう)、すなわちお浄土に至ってはじめてさとることができる、といただきます。
「浄土に至ってはじめて」と言われるのは、いまの私にはその心がないからです。私の思いやりには、どうしても分け隔てがあります。身近な人は案じても、遠い人のことは忘れています。
その私を、阿弥陀さまはひとり子として見ておられます。七人いれば七人それぞれを、ただ一人の子のように。そして病の重い子ほど、目を離さずにおられます。
熱を出した子は、親がそばにいることを自分で確かめる力もありません。それでも親は枕元にいます。私がお念仏を忘れている間も、案じられていることに変わりはありませんでした。
南無阿弥陀仏と称えるとき、その声は、枕元から呼びかけてくださる親の声でもあります。病の子のままで、すでに案じられている。七人の子のたとえから、私はそのことを聞かせていただきます。

