「あう」ということ

「あう」という言葉を、私たちはふだん、どの字で書いているでしょうか。人と会う。話が合う。思わぬ事故に遭う。この三つでしたら、迷うことなく書き分けておられると思います。

ところが浄土真宗では、同じ「あう」に、見慣れない字を当てます。「遇う」、そして「値う」。み教えにあう、ご縁にあう、仏さまにあう。そう申しますときに用いられるのが、この二字でございます。

「会う」も「合う」も、こちらの側で起きることです。「遭う」は、思いがけない出来事に出くわすこと。それに対して「遇う」「値う」は、向こうからやって来て、あわせていただくということ。私が探し当てたのではないのです。

祖父の調声にならって

私にとっての法泉寺は、もともと「帰る」お寺でございました。母方の実家がこの寺で、小さいころは夏休みや冬休みになると、よくここへ帰ってきていたのです。

覚えておりますのは、祖父である前住職と、兄妹三人で本堂に参り、一緒にお勤めをしたことです。正信偈(しょうしんげ)、讃仏偈(さんぶつげ)。小学生の時分ですから、何を称えているのか、何も分かってはおりません。ただ、祖父の調声(ちょうしょう)にならって、まわりの声に合わせて、口を動かしていただけでした。

やがて中学、高校、大学と進むにつれ、日々は忙しくなってまいります。帰る機会も少なくなり、本堂に座ることも、お勤めをすることも、ずいぶんと減っておりました。

ところが、不思議なことがございました。大学三回生の春休み、二十一歳のときに得度(とくど)に行かせていただいたのですが、長く離れていたはずのお勤めを、なんとなく、口が覚えていたのです。

覚えたのではなかった

あのとき私は「よく覚えていたものだ」と思いました。けれども、いま振り返りますと、それは違っておりました。

私が努力して身につけたものなど、何ひとつございません。何も分からぬまま、ただ隣で口を動かしていた。その私の中に、いつのまにか置かれていたのです。置いてくださったのは、私ではありませんでした。

宗祖は『教行信証』の総序に、こう記しておられます。

ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁、多生(たしょう)にも値ひがたく、真実の浄信、億劫(おくこう)にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ
(註釈版聖典132ページ)

阿弥陀さまの本願は、幾度生まれ変わろうとも、そう出あえるものではない。まことの信心も、量りしれぬ時を経て、なお得がたい。それをいま、思いがけずいただいたのであれば、遠い過去からのご縁をこそ慶びなさい――そのようにお示しくださっています。

「たまたま」でございます。私の計らいであの夏休みを選んだのではありません。祖父の隣に座ったのも、正信偈が耳に入ってきたのも、私が仕組んだことではないのです。

そして、その祖父もまた、どなたかの隣で、同じように口を動かしていた子どもだったのでしょう。その前の代も、そのまた前の代も。南無阿弥陀仏のお念仏は、そうやって誰かの声を通して、代々この私のところまで届いてまいりました。

本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
(『高僧和讃』註釈版聖典580ページ)

天親菩薩をたたえられたお言葉です。本願のはたらきに出あわせていただいたならば、迷いの世界にとどまり続ける人はいない。南無阿弥陀仏という名号は、あらゆる功徳を備えた宝の海のように満ちわたっていて、濁った煩悩の水であろうと、分け隔てなく受け入れてくださる。そうお示しくださっています。

ここでの「あひぬれば」の「あう」について、宗祖は『一念多念文意』のなかで、こう釈しておられます。

「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり

遇うとは、本願力を信ずることである、と言い切っておられます。ただ出くわしたという事実ではなく、信心そのものを指す言葉として、この字が選ばれていたのでした。

蓮如上人は、いのち終えるときには、妻子も財宝も、ひとつとして我が身にあひそうことはない、とお示しになりました。何ひとつ「あいそう」ものがない。それが、むなしいということなのでしょう。

けれども、その私が、こうして本願力に遇わせていただいている。ならば、あの何も分からぬまま口を動かしていた時間さえ、むなしくはなかったのだと聞かせていただきます。

いま、私はその同じ本堂で、調声をさせていただく側におります。前に座る私の声も、どなたかの中に、いつのまにか置かれていくのかもしれません。

皆様にも、覚えておられる声はございませんでしょうか。祖父母の、父母の、あるいはご近所の方の。どなたかのお姿を通して、あるいはご一緒にお参りする中で、気づけばみ教えに出あわせていただいていた。その「あう」は、こちらから求めて手に入れたものではなく、遠い昔から、向こうからはたらきかけ続けてくださっていたものでございました。

法泉寺の法座は、どなたでもお参りいただけます。

ご門徒であるかどうかにかかわらず、お申し込みも必要ございません。くわしくは法座・仏事についてのページをご覧ください。

法話