無明長夜の灯炬なり ―夜が長くなるころに―

秋のお彼岸が過ぎて、日の暮れるのがずいぶん早くなりました。ひと月前なら、まだ十分に明るかった時間に、外はもう薄暗くなっています。

夜が長くなる、という言い方があります。暦の上では秋分を境に、夜のほうが昼より長くなっていきます。私はこの季節になると、子どものころに歩いた、ある夜の道を思い出します。

お寺の灯りが見えた

法泉寺のある櫃田(ひつた)の地域では、毎年8月14日に納涼祭が行われてきました。今年から開催は中止になりましたが、私にとっては夏の風物詩でした。

幼いころ、私は普段はよそで生活していて、夏休みになると法泉寺で過ごしていました。夏休みに法泉寺にいれば、納涼祭がある。それが大きな楽しみで、毎年待ちわびていたものです。

ところが、ある晩のことです。祭りの会場にいながら、どうしても早く家に帰りたくなりました。周りにいた家族を置いて、一人で先に帰ろうとしたのです。

祭りの会場は賑やかで、明るいものです。ところが、そこから一歩ずつ離れていくと、にぎわいの音が少しずつ遠くなっていくだけでなく、周りがだんだんと暗くなっていきました。お寺と会場は1キロも離れていません。昼間なら、なんでもない道です。それでも、暗くなっていく道を歩きながら、幼いなりにとても不安だったことを、今でもよく覚えています。

やがて、お寺の灯りが見えました。当然、お寺には明かりがあります。それが見えたとき、ほっとしたわけであります。

暗かったのは、道ではなく

大人になって振り返ると、あの道そのものが特別に暗かったわけではないのだと思います。暗かったのは、明るいところから自分の足で離れていった、私のほうだったのです。

親鸞聖人は『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』に、こう詠まれています。

無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
(『正像末和讃』)

阿弥陀さまの本願は、無明という長い夜の闇を照らす大きな灯火である。智慧の眼が暗いといって悲しむことはない。迷いの大海を渡す船であり筏である。罪のさわりが重いといって嘆くことはない。そういう意味です。

「灯」は常のともしび、「炬」は大きなともしびのことだと教えられます。曇鸞大師(どんらんだいし)は、千年のあいだ閉ざされていた暗い部屋であっても、わずかな光が入ればたちまち明るくなる、と説かれました。千年分の暗さが、光をさえぎることはできない。長い夜であることと、照らされないことは、別のことなのです。

私は、暗い道を歩いていたとき、自分が灯りに向かって歩いているとは思っていませんでした。ただ不安で、足元ばかり見ていました。それでも、お寺の灯りは、私が気づく前から、そこに点(とも)っていました。私が点けたものではありません。私が見つけたのでもありません。灯りのほうが、暗い道にいる私のところまで届いていたのです。

この私を照らす灯り

祭りの明るさというのは、どれほど楽しくても、いつかはそこを離れていくものです。あの夜、私を待っていたのは祭りの明るさではなく、お寺の灯りでした。

阿弥陀さまの光は、私が明るいところにいるときだけ照らすのではありません。自分から暗いほうへ歩いていく私を、その暗さのただ中で、先に照らしてくださっています。智眼くらしとかなしむな、というお言葉は、暗い私を責める言葉ではなく、暗いままの私がすでに照らされていることを告げてくださる言葉なのだと、いただいています。

日の暮れるのが早くなるたびに、私はあの道と、先に点っていた灯りを思い出しています。

法泉寺の法座は、どなたでもお参りいただけます。

ご門徒であるかどうかにかかわらず、お申し込みも必要ございません。くわしくは法座・仏事についてのページをご覧ください。

法話