広島で暮らしておりますと、秋口はカープの順位の話が、どこにいても聞こえてまいります。今年は残念ながら、優勝争いに加わることはできませんでした。それでもこの時季、新聞やテレビには決まって「自力優勝」という言葉が躍ります。
自力優勝とは、残りの試合に全部勝てば、ほかのチームの結果に関係なく優勝できる状態のことだそうです。それが消えると、「自力優勝の可能性が消滅」と報じられ、あとは「他力」になります。他のチームが負けてくれるのを待つしかない。頼りなく、少し情けない響きの言葉です。
「他力本願」という言葉も、ふだんはこの意味で使われています。人任せ。自分は努力せず、誰かがやってくれるのを待っている。そのような意味で、あまり良い言葉としては使われておりません。
けれども、この言葉はもともと、浄土真宗の一番大切なところを言い表した言葉なのです。
「他」とは、誰のことか
他力本願の「他」は、他人のことではありません。阿弥陀さまのことです。そして「力」とは、阿弥陀さまの「必ずこの者を救う」という本願(ほんがん)のはたらきのことです。
ですから他力本願とは、他人に任せて楽をすることではなく、私の小さな計らいを頼りにするのをやめて、阿弥陀さまの大きなはたらきに、この身をお任せすることを申します。
野球の「他力」と、ずいぶん違うことがお分かりいただけると思います。野球の他力は、相手が負けてくれるかどうか分からない、当てにならない力です。こちらは待つしかありません。阿弥陀さまの他力は、こちらが頼む前から、すでにこの私に向かってはたらいてくださっている力です。待つ必要のない、もう届いている力なのです。
親鸞聖人は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の一番はじめに、こう記しておられます。
ひそかにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度する大船、無碍(むげ)の光明は無明(むみょう)の闇を破する恵日(えにち)なり
(『教行信証』総序、註釈版聖典131ページ)
私なりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀さまの本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにも妨げられないその光明は、煩悩(ぼんのう)の闇を破ってくださる智慧の輝きである。そういう意味です。
大きな船に
迷いの海を、自分の力で渡ろうとする。それが自力です。どれほど泳ぎの練習を積んでも、太平洋を泳いで渡り切ることはできません。いずれ力尽きてしまいます。煩悩を抱えたままの私に、さとりの岸まで泳ぎ着く力はない。それが、自力の限界でございます。
他力とは、その海を渡る大きな船に、乗せていただくことです。船に乗った人は、もう泳ぎません。船室で「よし、私がこの船を動かすぞ」と力む人もおりません。運んでいただくのです。
ところが、ここに一つ難しいことがございます。素直に乗ることの難しさです。自分の力でなんとかしたい。自分の努力で幸せをつかみたい。そういう自力の心が、なかなか捨てきれません。船に乗せていただいているのに、不安になって甲板を走り回っているようなものです。「自力優勝」という言葉に、どこか誇らしい響きを感じてしまうのも、同じ心なのかもしれません。
「南無阿弥陀仏」と手を合わせるとき、それは「どうかお願いします」という願いの言葉ではありません。「ああ、もう乗せていただいていたのだな。ありがとうございます」という、感謝と安心の言葉です。
他力本願に生きるとは、人生を投げ出すことではございませんでした。私のいのちも、私の行く末も、すべて阿弥陀さまが引き受けてくださっている。その安心があるからこそ、今日という一日を、精一杯、穏やかに歩んでいけるのだと思います。
皆様も、待つしかない他力ではなく、もう届いている他力に、乗せていただいておられます。

