秋彼岸・合同墓・墓地の法座をお勤めいたしました

九月二十一日、秋のお彼岸の二日目に、合同墓・墓地の法座をお勤めいたしました。ご参拝くださいました皆さま、まことにありがとうございました。

皆さまとご一緒に正信偈をお勤めし、そのあと一時間ほど、お彼岸とお墓にちなんだお話をさせていただきました。お墓の歴史をたどる場面では、写真の資料を六枚お示ししました。当日おいでになれなかった方もおられますので、要点を三つ書き留めておきます。

お墓は、手を合わせる先

親鸞聖人は、ご自身のご遺骸について「賀茂河にいれて魚にあたふべし」と仰せになりました。覚如上人の『改邪鈔』に残るお言葉です。けれど遺されたお弟子たちには、そのようにはできませんでした。ご遺骨は大谷に葬られ、廟が建てられ、七百六十余年たった今日も、人は聖人のもとへ参り続けています。

「いらない」と仰った方のお墓を、慕う人が大切に守り、整えた。これは矛盾ではないと思います。お墓は、亡くなった方ご自身のためのものというより、遺された者が故人に出会い、その方からみ教えを受け継いでいく場なのだと味わいます。

法話では、お母さまのご遺言どおり散骨をされた方が、のちに「手を合わせる先がない」と気づかれた、というお話にも触れました。お墓とは誰のためのものかを、逆の側から教えてくださるお話です。昨年十一月に当寺が合同墓を設けましたのも、同じ願いからでございます。

「当たり前」の反対は「有難い」

後半は反対語のクイズから入りました。「有難い」の反対は「当たり前」です。「有難し」とは「有ることが難い」と書きます。めったにないことを「あるのが当然」と思って生きているのが、私たちです。

数年前、私たちは当たり前をまるごと手放す経験をいたしました。当たり前に行けていた買い物が止まり、当たり前に会えていた家族に会えなくなり、法事さえ勤められなくなりました。戻ってきた日常は、もう当たり前ではないはずです。

仏法に遇うことの難しさを、親鸞聖人は『浄土和讃』に「難中之難とときたまひ 無過此難とのべたまふ」とうたわれました。毎朝お唱えする正信偈にも「難中之難無過斯」として入っております。

衆水、海に入りて一味なり

結びには、正信偈の「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」の句を味わいました。凡夫も聖者も、重い罪を犯した人さえも、等しく本願の海に入るならば、川の水が海に入って一つの塩味になるように、みな同じ救いにあずかる、というお言葉です。

このあたりには、馬洗川、西城川、作木川、太田川と、たくさんの川が流れております。山から湧いたきれいな水も、雨の日の濁った水も、みな集まって瀬戸内の海に注いでいきます。海に入れば、どの川の水かを言い分けることはできません。隔てなく受け入れられて、同じ一味になる。それが阿弥陀さまのお心です。

春と秋のお彼岸には合同墓・墓地の法座をお勤めし、納骨された亡き方々も、このご縁のうちにお偲びいたします。法泉寺の法座は年に五度あり、ご門徒でない方もお参りいただけます。お申し込みも要りませんので、次のご縁にも、どうぞお気軽にお運びくださいませ。

法泉寺の法座は、どなたでもお参りいただけます。

ご門徒であるかどうかにかかわらず、お申し込みも必要ございません。くわしくは法座・仏事についてのページをご覧ください。

お知らせ